九州の巨石文化⑶

弥生時代の始りについては様々な説がある。

ウィキペディアによると、「2003年に国立歴史民俗博物館【以降ー(歴博)と表記】が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。
当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。」との説を表明した。
歴博は最後に、「これまでの弥生文化と同じ名称で論を進めると著しい混乱を招くので、その混乱を回避するには,弥生文化の農耕の様態を縄文文化の農耕と区別したうえで,全体枠を生活文化史的経済史的視点から「農耕文化複合」ととらえ,その後に階層分化にもとづく政治的社会の形成(農耕社会の成立)を据える二段構えで弥生文化を理解すべきではないだろうか。」と伝えている。(国立歴史民俗博物館の「農耕文化複合と弥生文化」を参照。)
私はこの歴博の説、弥生時代の始まりを紀元前10世紀とすることに、単純に同調できない。小規模の稲作が一部地域で確認できただけで、「時代の転換」を決めるのは早計過ぎると考えている。
政治・経済・社会が大きく変貌したときが「時代の転換期」であり、以前より日本列島での稲作は古くから確認されており、縄文時代には揚子江周辺の倭人…「江南人」が列島へ交易にやってきたり、住み着いたりして稲作も行われている。その渡来数は少なく、列島全体の縄文人の生活が大きく変わるわけではなかった。
また、土器から検出されたイネのプラント・オパールの最古のものとしては、岡山県真庭市美甘(みかも)村姫笹原遺跡の縄文時代中期(約5,000年前)の事例がある。このほかにも岡山市津島岡大遺跡や南溝手遺跡(縄文時代後期ー約4,000年前)の例もある。
さらに、岡山県南部の総社市南溝手遺跡の縄文時代後期(約3,500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土しているという。
また、江南では縄文土器(中国名は拍印縄紋陶)が大量に発見されている。
さらに、中国の長江下流域には古来倭人とよばれる江南人たちが住んでいたそうで、『山海経』、『漢書』(一世紀成立)、『論衡(ろんこう)』(一世紀成立)そのほかの書によると、長江南部のほかに、朝鮮半島南部、日本などにも倭人はひろがっていました。倭人ということばの意味は、「背がまるくてひくい人」「中央から遠い土地の人」「従順な人」などと、あまりよい意味ではない。
『漢書』の顔氏古注には「交趾(こうし)(現在のベトナム)から会稽(かいけい)(現在の浙江省)に至る七、八千里(古代中国の一里は437.4m)のあいだに、百越(非漢民族)が入りまじって住んでおり、それぞれに違う姓をもっている」と説明され、長江にそって南側の地に多くの越人が住んでおり、なかでも下流の江南地方に住んでいた人々をとくに倭人と呼んでいたとある。次回はまとめです。

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