九州の巨石文化⑴

縄文晩期の豊の国は、縄文前期の信濃と長い年月と距離が離れている。 そのため豊の国では、円環の形の他にも、環状列石自体を山の上や尾根筋に造るなどして遺構の立地条件を変えたり、円環の内側に土を盛り上げた塚を設けたりして、 この土地で環状列石の形態と築造場所を独自に変化させていったのではないだろうか。このような現象は立石文化についても当てはまりそうな気がする。 つまり、縄文中期の飛騨古川から時間と空間が離れるほど、その本来の意味は忘れ去られ、立石文化を担った人々は幾つもの部族に分かれ、立石を直線状に並べたり、 上の塚の上に立てたり、横倒しにして積み上げたり、立石自体を山の中腹や頂上に立てるなどして、 それぞれの土地で立石遺構の形態と築造場所を独自に変化させていったのではないか。
日本列島の先住民である縄文の民は、長らく幸福な時代を送っていたらしい 。 縄文時代を支配した思想とは、 現代日本にも少し残っているように、「 足ることを知る心」である。 足ることを知らない人々は、必ず大地の恵みを独占しようとするのである。 当時は小国家のような地域集団はあっても、その国境を巡る利権で争うことはなかったであろう。 野の獣や、海や川の魚、空を飛ぶ鳥などは、全てカムイの恵みであり、皆で分から合うものであり、 「 イオマンテ」によって天上界へお返しするものだったのである。 縄文時代においては、人や獣、 草木などという境界線は存在せず、 共生と調和こそが宇宙の真理であった。 遠い音に、現代人よりも遥かに早く、調和と共生の哲学を確立していた賢明なる縄文の民。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

コメントをどうぞ