宇佐市議会を離れてもこれまでやってきた活動からまったく離れてしまうわけではなく、忙しさは相変わらずです。
でも、責任という重圧から解放され、精神的にはリラックスしています。
7月は参議院選挙を控え、公私ともに忙しくしています。
今後の日本の命運を左右する選挙と、この参議選を考えています。
何としても安倍一強体制を打破し、白いものを白いと発言できる普通の世の中に戻さねばならないと考え、比例区は弁護士の「仁比そうへい」さんを、選挙区は無所属の野党統一候補「安達きよし」さんの必勝を目指し応援し、見守っていきたいと思っていますので、皆さんもご声援お願いします。
さて、話は戻りますが、私の好きな縄文をテーマにホームページを一新しました。
縄文以後の歴史の中から縄文時代のかけらを拾い集め、彼らの姿を探っていく探偵のような作業で、一緒に謎解きをしていきましょう。

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豊かだった?縄文時代の生活

縄文人のリアル死生観や自然観…生き方を律した思想は、縄文以降の歴史に光を当てることで明らかになってくる。縄文は失われた過去でなく、日本人の生を律する思想として脈々と生き続けてきた。
考古学に限らず、神話や民俗学などを総合し、日本列島でおこったもうひとつの歴史を考えていきたいと思っています。

縄文とは約1万5000年前~2300年前頃までの間、人々が狩猟や採集だけで暮らしていた時代というイメージですが、すでに「燻製」「塩漬け」「煮干し」といった、現代とほぼ同じ要領での食料の貯蔵、保存の技術を持っていたということが判明しています。縄文人が、単なる“その日暮らし”をしていたわけではないことで、食生活もかなり豊かだったようです。
また共同体は緩やかな原始共産制のかたちもとられていたようで、多少の貧富や身分の差はありましたが、「階級」と呼べるものはなく、縄文時代は弥生時代に比べて殺傷人骨例の発掘は、パーセンテージで比較すれば圧倒的に少なく、争いごとも少なく精神的にも豊かだったようです。
それでは、わたしたちは、なぜ縄文人を軽視してきたのだろう。
「文字も持たず野蛮だから駆逐された縄文人」「背の高い弥生人、小さな縄文人」と教科書には骨格写真や槍をかまえて狩猟する挿絵が並べられていた。
学校の教科書そのものが、「野蛮」という縄文史観を子供たちに押しつけていたように思えてならない。あれを見れば、縄文人と弥生人は入れ替わったと信じてしまう。
弥生時代は「弥生土器が使用された時代」と考えられていたが、この定義が揺らぎつつあり、弥生土器=遠賀川式土器の出現と共に、弥生時代に稲作が始まったという常識は通用しなくなった。
つまり、縄文土器を使っていたのが縄文時代で、弥生土器を使っていたのが弥生時代と明確に分けて考えことはできない。
技術は伝承され、文化は継続されながら時代に即して変化していくもので、はっきりとした時代区分はできないというのが常識となりつつある。弥生土器のような縄文土器があるかと思えば、縄文の息吹を感じさせる弥生土器もあるように、境界線はじつに曖昧なのだ。

 

 

徒然の記

    九州の巨石文化⑶

    弥生時代の始りについては様々な説がある。

    ウィキペディアによると、「2003年に国立歴史民俗博物館【以降ー(歴博)と表記】が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。
    当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。」との説を表明した。
    歴博は最後に、「これまでの弥生文化と同じ名称で論を進めると著しい混乱を招くので、その混乱を回避するには,弥生文化の農耕の様態を縄文文化の農耕と区別したうえで,全体枠を生活文化史的経済史的視点から「農耕文化複合」ととらえ,その後に階層分化にもとづく政治的社会の形成(農耕社会の成立)を据える二段構えで弥生文化を理解すべきではないだろうか。」と伝えている。(国立歴史民俗博物館の「農耕文化複合と弥生文化」を参照。)
    私はこの歴博の説、弥生時代の始まりを紀元前10世紀とすることに、単純に同調できない。小規模の稲作が一部地域で確認できただけで、「時代の転換」を決めるのは早計過ぎると考えている。
    政治・経済・社会が大きく変貌したときが「時代の転換期」であり、以前より日本列島での稲作は古くから確認されており、縄文時代には揚子江周辺の倭人…「江南人」が列島へ交易にやってきたり、住み着いたりして稲作も行われている。その渡来数は少なく、列島全体の縄文人の生活が大きく変わるわけではなかった。
    また、土器から検出されたイネのプラント・オパールの最古のものとしては、岡山県真庭市美甘(みかも)村姫笹原遺跡の縄文時代中期(約5,000年前)の事例がある。このほかにも岡山市津島岡大遺跡や南溝手遺跡(縄文時代後期ー約4,000年前)の例もある。
    さらに、岡山県南部の総社市南溝手遺跡の縄文時代後期(約3,500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土しているという。
    また、江南では縄文土器(中国名は拍印縄紋陶)が大量に発見されている。
    さらに、中国の長江下流域には古来倭人とよばれる江南人たちが住んでいたそうで、『山海経』、『漢書』(一世紀成立)、『論衡(ろんこう)』(一世紀成立)そのほかの書によると、長江南部のほかに、朝鮮半島南部、日本などにも倭人はひろがっていました。倭人ということばの意味は、「背がまるくてひくい人」「中央から遠い土地の人」「従順な人」などと、あまりよい意味ではない。
    『漢書』の顔氏古注には「交趾(こうし)(現在のベトナム)から会稽(かいけい)(現在の浙江省)に至る七、八千里(古代中国の一里は437.4m)のあいだに、百越(非漢民族)が入りまじって住んでおり、それぞれに違う姓をもっている」と説明され、長江にそって南側の地に多くの越人が住んでおり、なかでも下流の江南地方に住んでいた人々をとくに倭人と呼んでいたとある。次回はまとめです。

用松律夫略歴

 

1949年 生まれ
日本考古学協会員
文化財保存全国協議会全国委員
戦争遺跡保存全国ネット運営委員

著作・共著

【戦争遺跡は語る】かもがわ出版 1999年
【正・読 しらべる戦争遺跡】柏書房 2003年
【日本の戦争遺跡】平凡社 2004年
【大分の戦争遺跡】 2004年

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