宇佐市議会を離れてもこれまでやってきた活動からまったく離れてしまうわけではなく、忙しさは相変わらずです。
でも、責任という重圧から解放され、精神的にはリラックスしています。
私の好きな縄文をテーマにホームページを一新しました。
縄文以後の歴史の中から縄文時代のかけらを拾い集め、彼らの姿を探っていく探偵のような作業で、一緒に謎解きをしていきましょう。

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豊かだった?縄文時代の生活

縄文人のリアル死生観や自然観…生き方を律した思想は、縄文以降の歴史に光を当てることで明らかになってくる。縄文は失われた過去でなく、日本人の生を律する思想として脈々と生き続けてきた。
考古学に限らず、神話や民俗学などを総合し、日本列島でおこったもうひとつの歴史を考えていきたいと思っています。

縄文とは約1万5000年前~2300年前頃までの間、人々が狩猟や採集だけで暮らしていた時代というイメージですが、すでに「燻製」「塩漬け」「煮干し」といった、現代とほぼ同じ要領での食料の貯蔵、保存の技術を持っていたということが判明しています。縄文人が、単なる“その日暮らし”をしていたわけではないことで、食生活もかなり豊かだったようです。
また共同体は緩やかな原始共産制のかたちもとられていたようで、多少の貧富や身分の差はありましたが、「階級」と呼べるものはなく、縄文時代は弥生時代に比べて殺傷人骨例の発掘は、パーセンテージで比較すれば圧倒的に少なく、争いごとも少なく精神的にも豊かだったようです。
それでは、わたしたちは、なぜ縄文人を軽視してきたのだろう。
「文字も持たず野蛮だから駆逐された縄文人」「背の高い弥生人、小さな縄文人」と教科書には骨格写真や槍をかまえて狩猟する挿絵が並べられていた。
学校の教科書そのものが、「野蛮」という縄文史観を子供たちに押しつけていたように思えてならない。あれを見れば、縄文人と弥生人は入れ替わったと信じてしまう。
弥生時代は「弥生土器が使用された時代」と考えられていたが、この定義が揺らぎつつあり、弥生土器=遠賀川式土器の出現と共に、弥生時代に稲作が始まったという常識は通用しなくなった。
つまり、縄文土器を使っていたのが縄文時代で、弥生土器を使っていたのが弥生時代と明確に分けて考えことはできない。
技術は伝承され、文化は継続されながら時代に即して変化していくもので、はっきりとした時代区分はできないというのが常識となりつつある。弥生土器のような縄文土器があるかと思えば、縄文の息吹を感じさせる弥生土器もあるように、境界線はじつに曖昧なのだ。

 

 

徒然の記

    九州の巨石文化⑷

    縄文時代から江南人(倭人)が列島にやってきて、一部の地域で稲作も行われていたが、縄文時代から弥生時代への大転換は、紀元前5世紀に戦乱を原因とする倭人の渡来数が増え、列島全体に弥生文化が急速に広まったと推測できる。そして徐々に小国家群が成立して弥生時代に入っていった。
    これは、紀元前473年に呉王夫差が越王勾践により滅ぼされ、難民が四散していったことに始まる。その後、紀元前334年に越王無彊は楚の威王に敗れ、紀元前223年に楚王負芻(ふすう)は秦始皇帝に敗れることになる。直接、あるいは朝鮮半島経由で列島には波状的に戦争難民が逃れて来た。
    縄文人とはまったく異なった顔立ちや身体つきの多くの人々が戦争難民として逃亡してきたわけである。
    そしてその倭人によって、造船技術や水田稲作の技術、金属器の文化などが伝えられ、列島全体に拡がり、政治・経済・社会が大きく変貌、人々の生活は大きく変化し、弥生時代へと入っていった。
    その後も大陸の戦乱を避けて、楚人や漢人なども加わり、長期的・波状的に渡来人が増えてきた。
    そこで、ここでは紀元前六世紀頃が始まりだと仮定し、以後三百年ほどの期間を縄文から弥生ヘの転換期だと考えて話を進めていきたい。その頃、朝鮮半島からの渡来人達は、まず玄海灘沿岸地域へと移り住んで、肥沃な土地で水田稲作を始めて定住した。これらの人々の主な墓制は支石墓だったのだろうし、唐津平野に分布するそれらは、数の上でこそ際立ってはいなくとも、渡来人達が最初に造った支石墓だったのではないか。 それから少しだけ時代が下ると、 佐賀平野では大小いくつもの集落が形成されて、数多くの支石墓が造られることになる。
    その中でも、百十人基の支石墓が見つかった丸山遺跡や、四十二基が見つかった礫石( つ ぶていし)遺跡は、支石墓伝来期の代表的な拠点集落である。 これらの遺跡では、朝鮮半島の支石墓とは構造が変化しているようであり、上石の下の理葬施設が大きく二つの構造に分けられ、弥生時代初期の北九州における、人々の死生観や社会の実相が伝わってくる。
    まず一つ目の形態は、埋葬施設が石棺になっている支石墓である。 これは佐賀平野でも唐津平野においても、それぞれ一つしか見つかつていないので、どうしても地 域の首長墓だという印象を受けてしまう。今後これらの地域で複数の石棺支石墓が見つかったとしても、それが地域の有力者の墓だというとに変わりはないと思う。次いで二つ目は、壷棺の支石墓なのだが、どうやら壺棺に葬られ た人は、早くして死んだ子供や乳幼児であるようだ 。しかも理葬の方法は、壼棺を斜めに傾けて埋め、その胴部に穴を開けているというのだから、これは縄文人の死生観に極めて似ているといえそうだ。その二つ目は、土壌の支石墓である。
    これは地面に穴を掘って底に石を敷いたりした埋葬施設で、多くは成人の墓であるようだ。この形態は数の上で、佐賀平野や唐津平野の支石墓の大部分を占めているから、庶民の墓だということになるのであろうか。
    また、これら佐賀平野に定住した人々は、数百年後には小国家のように強力な勢力になった可能性もあるだろう。その勢力の残した足跡が、かの有名な吉野ケ里遺跡なのではないか。なお、島原半島有馬の原山遺跡は、支石墓伝来期の大規模拠点集落であり、遺跡の破壊が進むまでは二百基近い支石墓が存在したという。
    終戦後 、北九州の支石墓遺跡は発掘調査が相次いで 、縄文時代末期から弥生時代にかけての貴重な資料が集められた。これらの調査結果の中で特筆すべきことは、伝来期の支石墓遺跡から、縄文終末期の夜臼(ゆうす)式土器と、弥生初期の板付式土器の出土である。
    本州から渡ってくる縄文人にとって、豊前小倉は九州の玄関口にあたる。
    縄文晩期、豊前に上陸した縄文人は西へのコースをたどる部族と、南に移動する二つの部族に分かれたと想定できる。
    当時すでに、小倉から西の玄界灘沿岸地域には朝鮮半島から渡ってきた人々が多く居住しており、西へ進んだ勢力は渡来人と共生し、自らの縄文文化を残しながら、渡来人が伝える稲作や支石墓文化などを受け入れた。
    一方、南へと進んだ勢力は、渡来人とは住み分ける道を選び宇佐平野にたどり着いた。渡来人の勢力はまだ宇佐平野迄達しておらず、縄文文化は小倉以南の豊前豊後で繁栄し、縄文の民は巨石遺構を残すことになった。
    縄文晩期の巨石文化には環状列石文化と立石(りっせき)文化を継承する部族の二つがあり、また宇佐平野から先の進路には三つの進路があった。
    ひとつは東の国東半島を海沿いにたどるコース。二つ目は宇佐平野から宇佐川( 現在の駅館川)などを南ヘ と辿って、安心院盆地へと至る道である。安心院盆地には立石遺構が多く分布し、この土地に残された神話伝承は様々な年代の記憶を伝えているため、立石文化を継承した部族が長く拠点を築いた事は確かであろう。その三つ目は、これら二つの道の間を南下して別府湾沿岸へと至る道である。
    この道を南下し、別府湾が見える前に横道を西へと入って行くと、そこには巨大な環状列石が存在する場所がある。そこは環状列石文化を継承した部族の大きな拠点であった。その環状列石は、本州の環状列石に近い要素を幾つも持っており、豊の国の巨石文化第一号とも言うべき、記念碑的な縄文文化の遺産ではないかと考えている。

用松律夫略歴

 

1949年 生まれ
日本考古学協会員
文化財保存全国協議会全国委員
戦争遺跡保存全国ネット運営委員

著作・共著

【戦争遺跡は語る】かもがわ出版 1999年
【正・読 しらべる戦争遺跡】柏書房 2003年
【日本の戦争遺跡】平凡社 2004年
【大分の戦争遺跡】 2004年

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